「が」ではなくて「で」
「で」は「が」よりも一歩高度な自由な形態ではないだろうか。
「で」の中にはあきらめや小さな不満足が含まれるかもしれないが、
「で」のレベルをあげるということは、この諦めや小さな不満足をすっきりと取りはらうことである。そういう「で」の次元を創造し、明晰で自信に満ちた「これでいい」を実現すること、それが無印良品のヴィジョンである。
原研哉『デザインのデザイン』109頁より
・・・何かに熱中するためには自分をどんどん焚きつける必要があります。
どんどん薪をくべなくちゃ僕の情熱なんてすぐに消えちゃいますよ。
とにかく僕は「料理を作る」という決断をしたんです。あとは料理が好きであり続けるような努力をしなくちゃいけない
僕はそれが「プロ」だと思います。たった1回の奇跡を守り続けるんです
・・・たった1回の奇跡?
・・・何かを好きになるってことです。
『大使閣下の料理人 (13)』西村 ミツル かわすみ ひろし/講談社 194頁より
「絶望について話してもいいかな?」
男は言った。
「希望がないところでも簡単に人は絶望したりしない。希望はお金と一緒で貯めておくことができるんだよ。毎日、少しの希望と引換えに人は生きていくことができる。
ささいなことが糧となって人は往くべき道を編んでいくことができる。」
「希望がないところでは決して希望の残高は増えない。ゆっくりと、でも確実に人は絶望に近づいていく。気がついた時には引換えす体力さえも失われている。
その衰えが更なる絶望の淵へと人をいざない、終幕へ到達するのに総時間はかからない」
『希望の国のエクソダス
』村上 龍
を読んで
建築理論とは厄介な経験であり、限られた冒険的な魂だけに探求の機会を許されてきた活動であるとも言える。というわけでこれまでのところ建築教育者の多くはカリキュラムからこれを注意深く排除し、学生がいわば悪い病気に感染しないようにしてきたのだった。
たとえ建築学部が真面目くさって哲学の講釈をたれる場合でもそれはハイデガーやフーコーやデリダ(もちろん誰一人として建築分野の出身ではない)の上辺の読解に限られ、それもデザインスタジオの余談に害を与えない程度に与えられてきた。
テクトニックカルチャー
序文 foreword by Harry Francis Mallgrave
ついに読み出しました。